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また読み易くするために(1)文章を出来るだけフレーズごとに改行して、文中は句読点を多く挿入した。(2)かなり多くある連続する会話調問答文章は会話体形式に変更した。(3)当用漢字以外の漢字、パソコンに無い語彙が多く使われている。原文は「てふてふ」「ゐ」の文字もかなり使われている。橋本会長は中学校までに8000字の漢字を覚えたと言っていた。古い語彙は出来るだけ残し、読み方のふり仮名と意味を追記した。
典型的例はあとがき1の「無謬」(むびゅう:絶対に誤りをしないことの意味)である。一時「無謬日本農学神話の罪」という題で会長が執筆構想を持った時、教えてもらった語彙である。最近主として環境問題で行政の失政を認めないケースに使われる語彙である。
1995年頃の執筆で、説明の相手は神戸製鋼所である。1992年より神戸製鋼所は新聞古紙を解繊し、建設資材のコンパネボードを作る装置の開発に着手し、解繊棉を捕集するために橋本製袋製のコンバイン用収納袋を利用することで交流が始まり、橋本会長が、この解繊棉の農業利用を発想したことから、植繊機の開発構想となり、その開発を神戸製鋼が受け持つことになった。
1995年2月バイケミと神戸製鋼所が植繊機開発の関する提携契約締結、同年10月株式会社バイケミ設立となる。神戸製鋼所との提携に際して、植繊機の開発の目的から、この植繊機を使う農業の将来構想をまとめたもので、タイトルは単に「植繊機」であったが、同上の表題に改めた。当時は未だバイケミ農業という表現はしていない。
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執筆は1995年頃で、対象は植繊機の販売デモ先の農学者、農機具販売店、農協、農家である。
試作植繊機で地方デモを行い、当時は未だ正式には使っていないが、バイケミ農業による安全で、美味しいの農作物を作る農法を説明したところ、堆肥の話は通用するが、生肥料の概念は全く通用せず、また肥料といえば窒素、燐酸、カリは判るが、その肥効順序を判る人はおらず、ましてや現在もしきりに言っている燐酸可吸態化による植物の吸収理論の知識に至っては、デモに出席した大学農学の先生方にもないことが判り、先ずは馴染みの無い生肥料の表現については、とり合えず緑肥と言えば、遠からず意味が通じると思い、良品の農作物を作るには植物に燐酸を吸収させること、そのためには植繊機で作る生肥料が有効で、その結果燐酸が効いた農作物は良品質になる説明をするために執筆し、講話した記録である。燐酸吸収理論と技術の欠如を改めて認識した時期の講話である。
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1と同時期の1995年である。一般向け橋本農業論である。これまでの農業の問題点が植繊機によって解決が可能なことを説明したものである。
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本資料は1〜3を統合した2000年の執筆である。1〜3を各々1994年から95年頃に執筆して、97年〜98年より本格的にバイケミ農業の普及活動を行ったが、この間の経緯と反省を入れて、改めて農業とはから始めて、現状農業の問題と論点を出して、橋本思想を一通りまとめたものである。今後はこれを軸に展開して内容を充足していく。尚2000年〜01年にかけて執筆ペースは盛んである。
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2000年頃より植繊機を拡販するために盛んに地方にデモに出かけて、講演、講話をした時にレジメとして配付したいくつかの「販売説明資料」を纏めたものである。自然界における落葉、枯れ草の地表上於ける腐蝕と化学反応を、植繊機による生肥料に代替することで、土壌の肥沃性を得られることについての説明で、植繊機デモ先に集まる農業関係者と西神戸の事務所への訪問者が配布対象である。
販売資料[1]自然界で落葉や枯れ草が肥料となるまでの経過、[2]生肥料製造機械(植繊機)[3]土壌の肥沃性の3種類である。今回統合して表題のタイトルとした。
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[1] 自然界で落葉や枯れ草が肥料となるまでの経過
[2] 生肥料製造機械(植繊機)について(植繊機の簡易説明用)
[3] 土壌の肥沃性
1997年の執筆である。1994年頃より現在の実験圃場で野菜栽培試験を開始した。現在は3反であるが当時は2反であった。借用農地であり、試験開始までに相当量の化学肥料が施肥されていることが判っていたので、先ず神戸製鋼所で製作された新聞古紙を解繊した棉と葦、葛などの野草や籾殻を植繊機で解繊したパウダーを大量に地表に散布して、更に地中窒素を固定し遅効させるために、地上散布後2〜3ヶ月で鋤き込んだ。
この後、栽培結果も徐々に出だしたので、その結果と考察をまとめて1997年ごろ執筆したもので、目次 1 〜 6 の前半は3の要約である。目次 7 , 8 が栽培試験結果で 9 がその考察である。
但し、この時期は竹を本格的に使用する前で、種々の野草の生肥料効果を実験した結果である。
又編集に当ってで述べたように、栽培方法では、現時点と若干違うような記述もあるが、それは誤り出なく、今日に至る過程であると理解して頂きたい。少々の整合性不足のところも敢えて、修正していないので、承知してお読み頂きたい。むしろバイケミ農業の構築の歴史が判る。
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本稿はバイケミホームページ、バイケミニュース2005年8月号で「終戦60年バイケミ農業のルーツ[元肥考]坊ちゃんと呼ばれた頃の話」と題して掲載している。これを掲載する時、執筆時期と目的を会長自身に聞いて解説し、登場する話の時代背景を注記している。
今回これらを全部再録した。以下が再録した解説文である。
「引用」
本小文は橋本会長が何時ごろ書いたか記憶を辿ってもらった。1965年〜1970年頃の執筆のようである。1966年40歳前後の頃、農協の理事長就任要請を断り、何故断ったかは、自分は農協から肥料、農薬を購入せず、野菜の出荷に際しては仲買人が橋本野菜を指定してとりあう状態で、農協は農業者の側に立った行政をしておらず、その時断る理由の証として執筆したと言っていた。
従って今(2006年)から40年以上前のことである。その時祖父よりの口述伝承も含むから、今から見れば100年以上前のことである。
原稿用紙も古色蒼然としており、家伝の伝統農業の基本と概要の紹介である。当時でも肥料を土の中に入れない鉄則の記述や、講演で良く引用される日露戦争の勝利で千島、樺太の領土を手に入れ、大量に捕れる北洋の鰊粕を魚肥に使わせるために、官権を使って土の中に入れさせた話のルーツである。藁とり百姓の話や、子供の青っ洟を垂らす話など内容的には面白い。尚漢字を「元肥」にするか「基肥」にするかであるが、近年の執筆は基肥であるが、オリジナル原稿が元肥であったので、元肥にしてある。又目次の追加、Y爺さんとのやり取りは読みやすく編集した。
[引用終]
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元肥考の時代背景
(注1)小林多喜二「蟹工船」
(注2)農学研究の農政とのかかわり
1994年の執筆である。随所に1993年東北地方を始め全国的な米の凶作の原因について言及している。多分これが執筆の動機となり、今日のバイケミ理論の初期展開を行ったものである。
積年の思いを、93年の凶作と言う現実を見て、書き上げたものと思われる。この執筆の前駆となっている同時期の小冊子に「今年の米の凶作は何故起こったか」がある。当初は講話録には入れず鶏肋集が四方山話に収録を考えたが、第4部単独論文に収録することとした。内容的には重複するところが多いが、「凶作の原因」追求から「堆肥時代遅れ論」になる経緯が判り、植繊機の開発にかけた思いが伝わってくる気がする。
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1999年頃の執筆である。1994年に執筆した「堆肥を施用する有機農業は時代遅れ」をベースに内容を充足したものである。
本格的に植繊機のデモ、講演をする度に、バイケミ農業と有機農業の区別が混同され、有機農業がイコール堆肥農業に誤って理解され、国内農業は生肥料の概念が入る余地もない程、堆肥しかも完熟堆肥万能となっており、一方では、続出する堆肥被害は全て連作障害の名の元に問題がすり替えられていることに対する憤慨警鐘の意味もある。
特に完熟堆肥については、徹底的に有害性を主張し、農政、農学を攻撃の向け先としている。一方既に時期に、後述の第4部「活地気米の知識と国内農業」も執筆しており、生肥料の代表として竹パウダーを本格的に使用開始した時期でもある。この小冊子は単独で発行されて配布された。この小冊子を読んだ農学者のバイケミ農業批判をあとがき1で「無謬農学の常識とバイケミ農業の非常識−その逆転の日が来るまで」と題してまとめたものである。
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竹パウダーを本格的に使用するバイケミ理論を確立した2000年頃の執筆である。1998年ごろより植繊機デモ回数、講演回数や事務所への来客人数が増えたので、植繊機で作る竹パウダーを使うバイケミ農業について、バイケミ農業理論を農家用に極めて簡潔にまとめたものである。
通論の48頁で紹介した山梨県塩山市の山本ファームの桃園は廃園の桃園を1998年から竹パウダー撒布とバイケミ施肥方法で3年目の2000年に蘇生し、全国から多くの見学者が訪れたところである。この時の見学者に配ったのが初めで、竹パウダー使用によるバイケミ農業の説明書である。この資料を見た方の一人が福島県のマルハラ農園の武藤喜三氏で、戦後のある時期に巨峰を開発した大井上康氏が提唱した栄養周期説に基づく栽培経験者がおり、極めて短い文章での説明にも関わらず、バイケミ農業の本質を看破して、やっとめぐりあった農法と直ちに植繊機を購入して頂いた資料である。現在マルハラ農園のリンゴは年々バイケミ農業効果を発揮している。
短く簡単にまとめているので、2004年12月に発行したバイケミ農業通論第1章はじめに(1)バイケミ農業の本質「植繊機で解繊した生肥を使用する農業」と題して掲載したものである。
「2.農業者に必要な農業の基礎知識(オリジナル:農業者の栞を改題)」と「3.最近の有機栽培の流行に思うこと(オリジナル:農業を継続していく豆知識を改題)」は1950〜65年(昭和25〜40年)頃、同時期に執筆されたものと推定される。
この当時家業を継承し、家伝の日本伝統農業の確認と英国農業の勉強が進み、穫れる農作物、特に野菜については橋本農業生産物の品質が格別に特上となり、仲買人が特別扱いにするため、周囲農家の羨望の的になった。
このため心ある農家の特に青年が教えを請いに来た。また農協の営農指導員や兵庫県農業試験場の官吏の訪問、質問を受けたので、この時の説明用に執筆したものである。
2、3共もとの元題名示すとおり、特に2は「農業者の栞」と題して農業者に必要な農業の基礎知識として、農業で使われる言葉の意味を平易に説明した入門書として、又3は「農業を継続していく豆知識」最近の有機栽培という言葉が流行っているが、農業を継続して行くための基本農作業知識をまとめたものである。
特に昭和40年代からこの西神の地でも化学肥料から、堆肥に切替られて多用され、有機栽培と称するようになり、この有機栽培の流行に対する警鐘に書として執筆したものである。
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1997年から2002年にかけて「(1)安全で美味しい作物を作る農業の基礎知識(未完)」、「(2)今までの農業とこれからの農業(未完)」、「(3)安全で美味しい作物を作る農業」というような題で執筆されているし、事実執筆されたが、あれもこれも書きたいことが一杯でまとまり難かったようである。
今回講話録編集に当って未完、完成部分を編集採録するに当って(2)は完全に割愛した。又完成している(3)の第1章を完全に割愛して未完(1)の完成部分第1章を採録した。即ち(1)の第1章(第2章は未完)と(3)の第2章(第1章は完成しているが割愛)と組み合わせたものである。
因みに整理された目次で第1章は1997年頃の執筆で、第2章は2002年頃の執筆である。
内容的には第1章はこれまでの農業の誤りと植繊機を使うバイケミ農業理論展開で。第2章はその結果である。特に第2章6で、バイケミ農業理論の実証と確立となった山梨県の廃園した桃園を復興した詳細経緯をまとめている。
但し第2章の1〜5まではサブタイトルは違っているが、内容と帰着するところが同じであるので、かなりの部分で記述内容の重複がある。又系統的な論文の最終稿となる次の「賢人農業への道標」の前駆部分になる。
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第1章 国内農業は、何故衰退するのか
第2章 食の安全と味覚を良くする農業
2004年約1年かけて執筆したものである。橋本会長は過去1982年と2000年に心臓血管バイパス手術、2003年に動脈瘤切除手術の大きな手術のほか幾つかの手術を受けている。2003年の大手術後、これまでの農業論の集大成として、2004年1年かけてまとめたものである。この間、植繊機に続き焼害機(アグリバーナー、俗称:火炎放射器)や活繊機(クリーンレーキ)の橋本オリジナル農業機械や水田車輪付きハイクリトラクター、高畝成形機、植繊機解繊パウダー散布機等の農業作業機の試作試験を行い、バイケミ農業を実験用だけでなく、営農としての必要作業技術要素の開発を行った。
これらの成果を入れて60年間の集大成で執筆したバイケミ農業論の集大成である。
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1993年の執筆である。1993年の米の凶作は日本の米問題に皮肉結果をもたらした。GATTの貿易交渉の第8回通称ウルグアイ・ラウンドは1986年9月ウルグアイで始まり、1994年4月モロッコで終了したが、1993年は米の部分的自由化をめぐる大詰め段階であり、一切の米の輸入を認めない米作生産者を中心とする自由化反対論者も、その反対トーンを下げざるを得ない程の作柄指数であり、米部分自由化容認の最終段階の決定に少なからず影響を与えた事象であった。
結局1995年1月を期して世界貿易機関WTOが発足し、米の市場開放が始まり、ミニマムアクセス1995年40万トンから2001年80万トンの米輸入を義務付けられた。
これをこの凶作の原因を橋本理論で農法の誤りと決め付けた講話である。
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執筆は1999年頃である。1995年以降植繊機を本格的に使って積年の構想であった「草に学ぶ農業」を意味つけるために、1996年〜1998年にかけて、手短にある周囲の野草の特性を、実験圃場で実際に使って肥効を調べてまとめたものである。
竹を本格的に使用する前で、この後は竹使用が中心に絞られていくが、竹は万能効果がある有機物であることは間違いないが、この論文中に登場する各種の野生の草は、その特性により、入手できる場合は採用し、又は竹と併用することを勧めるための判断資料である。
尚草の青汁は季節によって変動するし、刈り取ってからの経過時間によって量、質が変化するので、使用する場合は注意が必要である。又(5)青汁農業の実証例その1は2000年に阪神淡路大震災(1995年発生)で溜池が決壊して稲作が出来なかった淡路北淡町の稲作を、バイケミ農法で復旧した稲作記録で、バイケミ農業通論47頁で紹介しているものである。
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執筆は2001年頃であるが、すでに1996年4月に「活地気米」と題する前駆作がある。
竹の有機物効果は兼ねてより承知していたが、植繊機デモで富山の山間地を訪問したとき、村の老農から当地の伝承に、雪に閉ざされた冬季の囲炉裏端で竹を叩いて解(ほぐ)し、春先の田植えの時に、代掻きの済んだ田圃に撒き、米作りをすると美味しい米が穫れるが、手作業での竹解繊のため量に制限があり、この美味しい米は自家用米のみに供された話を聞いて、早速植繊機による竹の解繊を始め、竹パウダーと呼び始めて使用開始した。
1995年の阪神淡路大震災で淡路島の北部では、溜池が割れて、水枯れして稲作の継続が出来なくなっており、2000年に一部の篤農家に竹パウダーを使った活地気米の栽培を勧め、実施した。秋の成績は抜群で、サタケ食味計95という二度と再現できない超美味な米が収穫できた。本講話は以上の経緯をまとめたものである。
以来この活地気米はバイケミ農業オリジナルとなり、鳥取県八東町の有志農家、次いで岐阜で竹パウダーを使用する稲作を本格的して今日に至っている。これらの実績を元に活地気米と命名し登録商標した。
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1997年に執筆したものである。目的は籾殻を植繊機で磨り潰した効果を確認し、磨り潰した籾殻の特性を農業用に利用するために執筆したものである。
籾殻の構成成分の半分は、その圃場の珪素成分であり、土に還元すれば良いことは昔から判り、言われて来たが、容易に腐蝕分解せず土壌に同化しないで、また水田では浮かんでしまうため、殆どの場合圃場で燃やされている。一方外見上の特性から牛糞堆肥プラントの吸湿材として利用されるが、吸水性は無く、効用は全く無い。植繊機処理すると吸水性は重量換算で400%にも達し、容易に圃場へ戻せるばかりでなく、稲や野菜の苗床や高水分を含有する有機質材を植繊機処理すると多量の水分が発生するので、その時の吸湿材に使用しいている。
下記は当時この論文を関係先に配った時の橋本会長の案内状の引用である。
[引用]
籾殻が5年の歳月を経ても、腐蝕しないことは良く知られている。これは、籾殻に含まれる木酢が強い浄化力、抗菌力を持っているからであるという事は余り知られていない。
植繊機で組織破壊された籾殻を、そのまま土壌中に投与すると、土壌は浄化(毒性物質を消去)、還元(固定肥効物を有効肥効物に変質)、抗菌(有害微生物を排除)力を作り出す。また、多気孔な籾殻は土壌中に燐溶解細菌が増殖できる環境を作り、この結果可吸態燐の生成により、稲を燐酸生長させる。さらに籾殻に含まれる珪酸の働きで、稲の倒伏が少なくなる。植繊機で組織破壊された籾殻で、搗減(つきへり)しない、厚みのある、丸くて、味覚や栄養に富んだ米作りが期待出来る。
[引用終]
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